世界のWASEDAを目指す早稲田大学

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プロローグ「国際交流と早稲田大学の歴史」

プロローグ「国際交流と早稲田大学の歴史」 1868年、明治新政府がキリスト教禁止の国策を変えようとしないことを問題視した欧米列強の代表として、駐日イギリス公使パークスが新政府との交渉の席に着きます。この時、新政府側の代表として、パークスと英語で激しい応酬を繰り広げた人物こそ、早稲田大学の前身「東京専門学校」の設立に尽力した大隈重信です。

遡ること1838年、大隈重信は佐賀藩士の子として生まれます。幼少の頃、佐賀藩の藩校「弘道館」の門をくぐりますが、学問の習得に重きを置かない保守的な「葉隠」の教育方針に反発して藩校を離れ、その後は、蘭学や英学といったヨーロッパの先進的なものの見方に傾倒していきます。オランダ人宣教師フルベッキが校長に就任した佐賀藩の英学塾「到遠館」で後輩たちの指導に当たる傍ら、自らもフルベッキから英語を学んだり、アメリカ独立宣言の理念に触れたりしています。

明治新政府にあって、大隈重信は政治家として大いに手腕を発揮します。ところが、1881年、かねてからイギリス式立憲君主制の導入を主張してきた彼は、プロイセン憲法の採用を目論む政府と対立し、政府から去ってしまいます。この「明治十四年の政変」の翌年、大隈重信は新党「立憲改進党」の党首に就任します。

立憲改進党の結党から半年後に、大隈重信が同党の3人(小野梓、天野為之、高田早苗)とともに設立した学校、それが東京専門学校です。このうち、小野は「早稲田の母」、天野と高田は、後にこの学校で教鞭を取ることになる坪内逍遥、早稲田大学の初代図書館長となった市島謙吉と合わせて「早稲田四尊」とそれぞれ称されています。

ところで、早稲田大学では、政治経済学部が大学の中心的な存在とされていますが、それは、東京専門学校が立憲主義の革新的な政治家の養成を目的に設立されたことも背景にあります。とはいえ、設立初期には、政治経済学科のほか、法律学科、理学科、英学科なども設置されています。なかでも英学科の設置には、早くから英語を修め、国際感覚の重要性を理解していたであろう大隈重信の意向が反映されていると思われます。早稲田大学が取り組んでいるグローバル化は、この英学科からすでに始まっていたと言えるのかもしれません。 そのグローバル化の端緒とも言えるのが、外国人留学生の受け入れです。東京専門学校の設立からまもなく、当時の朝鮮や中国・清から留学生が海を越え、早稲田大学の地を踏んでいます。そして、現在の大学名に改称した3年後の1905年に清国留学生部を設置したのを機に、早稲田大学はアジアの有能な若者の育成を本格的に始めます。しかし、清国留学生部は1910年に廃止され、この2年後には清朝が消滅しています。

プロローグ「国際交流と早稲田大学の歴史」 1920年、早稲田大学は当時の大学令に基づく大学(旧制)に昇格し、政治経済学部、法学部、文学部、高等師範部(現在の教育学部)、商学部、理工学部、各学部の大学院、高等学院を擁する「ユニバーシティ」となります。

大隈重信は1922年に波乱の生涯を閉じます。その10ヶ月後、ユダヤ系の物理学者アインシュタインが、1933年にはイギリスの文豪バーナード・ショーがそれぞれ来校していますが、大学組織の拡充とは裏腹に、早稲田大学と海外とのつながりは戦争の足音とともに停滞期が続きます。

太平洋戦争が終わり、新しい時代を迎えた早稲田大学は1949年に新制の大学へ移行し、早稲田大学史の新たな1ページを開きます。

1951年のサンフランシスコ講和会議を機に、日本は国際舞台に復帰を果たします。同じ年、早稲田大学では、高等師範部英語科が教育学部英語英文学科に改組されています。これは、新制の教育制度の下、日本の戦後復興には英語を解する人材育成が欠かせないという社会的な要請に早稲田大学が応えた結果とも言えます。さらに、1955年の外国学生特別選考制度の導入、1957年に来校したインド首相ネールへの名誉博士号の授与、1959年の語学教育研究室の設置といった出来事が続き、早稲田大学の国際交流が息を吹き返します。

そして、米国司法長官ロバート・ケネディが来校した翌年の1963年には、主に北米英語圏からの留学生を対象に英語で授業を行う国際部(留学生別科)を設置します。ちなみに、国際部での日本人学生の聴講を認めた年には東京五輪が開催されていますが、早稲田大学は、大学の施設(戸山キャンパスの記念会堂)を東京五輪のフェンシング競技会場に供し、ここでも国際交流に一役買っています。

60年代後半以降の早稲田大学は、学部と付属校をいくつか新設します。たとえば、1966年には社会科学部、1982年には本庄高等学院、1987年には人間科学部をそれぞれ設置しています。一方、国際関係では、1988年に日本語教育センターを開設し、外国人留学生の日本語習得支援や日本語教員の養成にも力を入れるようになります。

平成に入ると、早稲田大学は大学院の拡充にも乗り出し、教育学、人間科学、社会科学の各大学院を90年代前半に相次いで開設します。これらは、学部で習得した専門知識をさらに深め、その分野の研究者を養成する「研究型大学院」と言えますが、90年代後半以降、日本の経済状況や国際情勢の急激な変化も鑑み、これまでの枠にとらわれない新しい大学院教育へ大きく舵を取り始めます。これは、1994年以降、早稲田大学が「グローバルユニバーシティ」を合言葉に、他大学と一線を画す「早稲田大学らしさ」を活かした大学のグローバル化を推し進め、自らの国際競争力の向上に本格的に取り組み始めた時期と重なります。

以上のように、グローバルユニバーシティの理念のもと、大学院重視の方針を示した早稲田大学ですが、研究型大学院のほか、実務に直結する高度なビジネススキルを備えた職業人を養成する「専門職大学院」、各学部を基礎としない「独立大学院」、他大学と共同で設立した「共同大学院」など、実に様々な形態の大学院を設置し、その数は学部を優に超えるまでになっています。

その学部に目を向けると、スポーツ科学部が新設された翌年の2004年には、世界の様々な文化と言語をテーマに学際的なリベラルアーツ教育を標榜する国際教養学部が新設されるなど、世界を見据えた新しい試みが学部レベルでも始まります。

こうして、大学院の拡充と国際教養学部などの新設が矢継ぎ早に行われる中、平成になってからも海外から多くの要人が早稲田大学を訪問します。1993年に米国大統領クリントンが来校して以降、中国の江沢民主席と胡錦濤国家主席が1998年と2008年にそれぞれ早稲田大学の地を踏んでいます。さらに、韓国の金泳三元大統領と米国前大統領ジョージ・W・ブッシュが2009年に、翌年には、国連の潘基文事務総長が来校するなど、早稲田大学と世界とのつながりが揺るぎないことを実感させられます。

第一・第二文学部が文学部と文化構想学部に、理工学部が基幹・創造・先進の3理工学部にそれぞれ再編された2007年以降、早稲田大学は、世界のWASEDAすなわち「グローバルユニバーシティ」の確立を標榜し、世界の名門大学と伍する存在を目指しています。早稲田大学がWASEDAの道を歩むことは、大隈重信がフルベッキから英語とアメリカ独立宣言を学んでいた幕末の頃には、すでに決まっていたのかもしれません。(※敬称略、肩書は当時)

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